市村清ストーリー

市村清七つの名言・格言

リコー三愛グループ創業の父、みやき町・佐賀県に大きな功績を残した偉人『市村 清』氏を称えて

190年4月4日、市村氏は、この千栗土居公園が所在するみやき町市原地区で生を受けました。地元北茂安小学校で主席を続け卒業、名門佐賀県立旧制佐賀中学校に入学。しかし生活困窮を理由に佐賀中学校を2年2学期に中退し、隣の久留米市を中心に野菜行商を始めて、家計を助けることになります。市村氏は幼い頃よりこの蓮池の蓮根を掘る手伝いをしており、冬の時期の辛い思い出として後年振り返っています。この時、市村氏14歳。早すぎる社会人としての第1歩でした。

数々の試練を乗り越え、株式会社リコーの社長となった市村氏は、会社を多角化しつつ、持ち前の分析力、観察力、行動力、粘り強さで、会社を『世界のリコー』と呼ばれる大企業に押し上げていきます。企業活動だけではなく、佐賀市の市村記念体育館、みやき町の北茂安小学校講堂の寄贈、千栗八幡宮への多額の寄付など、市村氏の地元への思いはとても深いものでした。

だからこそ、市村氏が68歳で早すぎる死を迎えた翌年の1969年、合併してみやき町となる前の旧北茂安町は、市村氏へ名誉町民の称号を贈っています。明治維新150周年を迎えた2018年、みやき町は市村氏を『みやき町の偉人』と定め、佐賀県の「明治維新150年記念さが維新交付金」の支援を受け、市村氏を紹介するこの看板整備を行うこととしました。私たち、みやき町民・佐賀県民は、市村氏の功績や人となりを忘れず、また一人一人の人生の指針となるべく、今後も市村氏を顕彰していくことを誓います。

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode1≫

【お金ではなく信用】

学業優秀であった小学校時代、貧しさから上の学校に進学するのが難しいことを見越した祖父が、小学校低学年だった清に1頭の牛を与えます。牛を大切に育てて子どもを産ませ、それを売れば中学校の学費ができるだろうという思いからでした。喜んだ清はわずかなお小遣いを牛のエサ代に使い、大事に育てました。しかし子どもが産めるようになっただろうという時に、税金滞納の肩代わりとして、牛を連れていってしまいます。必死の抵抗をした清でしたが、祖父や父から諭されて諦めるしかありませんでした。清は、「心中ではどうしても納得がいかなかった」「後年、私が納得いかない限り、権力や金力に対して徹底的な反抗を試みて譲らないようになったのは、この事件などに芽生えの一端を探りうるように思う」と振り返っています。

他者の権力や金力に臨むときは徹底していた清ですが、自分の資産に関してはいたって無関心だったそうです。「食うや食わずの貧乏な家で育ってきたから、普通からいえば非常に金に細かくなきゃならない。ところが、自分で言うのも変な話だが、私は金に対して執着が少ない」と清は発言しています。また『世の中の多くの人は金さえあればというけれど、どんな場合でも、一番大切なのは信用である。金を貯めようとすると非常に骨が折れるが、信用を得るには一生懸命やればよい。そうすれば、金はひとりでについてくる。』これが清の信念であったそうです。 貧しい少年時代と後年の成功経験を、よりよく自分の中で昇華して、人生の糧とする前向きな清らしいエピソードです。

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode2

使用人は協力者

1929年、清が29歳の年、理研感光紙九州総代理店吉村商会の権利を譲り受け、福岡市春吉四十川で独立開業をした際、清は初めて3人の店員を雇い入れました。もう清夫婦だけの力では店の仕事を捌き切れなくなることを予想した結果です。3人の店員はみな高等小学校を出たばかりの14、5歳の少年たちで、いわば吉村商会の使用人です。しかし人を使う立場になって清が最初に考え、実行したことは、彼らを心から優遇することでした。少年時代、生活困窮を理由に退学した出来事を忘れていなかった清。「中学も大学も中退し、どうにかここまでやってきた自分が本当に仕事を大きくしていくためには、使用人が心から協力してくれなければできるものではない。使用人は事業の協力者だ」ということを清はこの時から信念として実行しました。

清も幸恵夫人も、使用人を呼ぶときは「君付け」にし、月給は相場の六割増し。三度の食事も仕事の時間も全て雇い主である清と同等だったそうです。清夫婦には子宝がなかったので、自然と精神的にも我が子のように大切にしたということです。

 会社が雇用者に誠意を尽くし、雇用者が会社に誠意を尽くす。清が戦後直後に提唱した「三愛精神」の基盤となるようなエピソードです。

三愛精神:「人を愛し 国を愛し 勤めを愛す」

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode3≫

【三愛精神の提唱】

第二次世界大戦後の焦土の中で、私がいち早くサービス部門に事業の活路を探ろうと裁断したのは、肩にかかった数百の復員社員たちの働き場所を求めるためもあったけれども、大きく見れば、これからの世界には「平和」につながる企業でなくては存在の意義を持たぬと考えたからであった。

いったい人類はなぜこんなに深刻な闘争を繰り返すのであろうか。あれこれと考えて、私はようやく「愛」こそがこれから私がやる仕事の根幹でなければならぬと結論したのである。まず、「人を愛する」ことである。自分さえよければという考えは徹底的に放逐しよう。

人を愛することは、生活が豊かでなければできない。それにはやはり「勤めを愛する」ことだ。楽しく働ける環境がなくて豊かな生活が築けるはずがない。だから「勤めを愛する」という一項を挙げた。創意を働かせれば仕事はだんだんに面白くなる。仕事に打ち込んでいる人間の姿は非常に神聖である。仕事そのものの技術も熟達する。どんどん抜てきされて職場の地位が上がれば生活も余裕ができるから、他人のことを考え、人を愛することもできるようになる。個人としてそこまでいけば、やがて社会に対する愛となり、「国を愛する」精神につながることは間違いない。それが戦争というような人間悪の極致現象をなくすもととなるのではないか。

これが、私の「三愛主義」であり、サービス部門の仕事を始めたとき、その店に「三愛」と名付けたゆえんなのである。私は事業経営によってこの大命題を追求したい。単なる利潤追求ではなくて、その底に何かヒューマニズムの流れる事業家たることを信条としているのである。またその信条こそが、真に事業を繁栄させる根本だと断言してはばからないのである。

『そのものを狙うな(有紀書房[1964年]出版)』より抜粋

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode4≫

【獄中生活で物を作り出す創造性】

大正11年(1922)、清の勤める共栄貯金銀行は日中合弁の大東銀行を設立します。清は、大東銀行への転職を希望し、大東銀行北京本店に赴任します。

しかし昭和2年(1927)、清27歳の年、歴史に残る金融恐慌が始まります。この金融恐慌の波を大東銀行も親銀行の共栄貯金銀行も逃れることができず、倒産に追い込まれました。挙句に清は、上海総領事館司法部により横領の疑いで逮捕されてしましました。身に覚えのない容疑であるため、清も否認を繰り返すしかなく、時には拷問に近い取調べにも耐えながら、保釈されるまで150日間も拘留に耐えたそうです。

狭い独房に清の他に3人の逮捕者、蒸せるような灼熱の独房生活でした。ある日、男たちは退屈を持て余し「将棋をしたい」と清に相談すると、しばらく思考した後、綿密な計画で、将棋盤は、4人分の木枕、駒はトイレットペーパー芯、マス目などを書くのは数日間かけて集めた煤を水で溶かしたものを活用し、とうとう一組の将棋セットが完成させたそうです。

後に清は、実弟の市村茂人氏にこう語ったそうです。

「監房という世間から隔絶された環境の中でも、冷静に観察し、集中力をもってすれば創造できないものはない。志があれば、勇気があれば道は必ず拓ける。勇気をなくしたとき、あきらめたときに道は閉ざされる。人間の不思議さ、尊さ、それは無限に湧く知恵である。いかなるときでも人間だけが持つ知恵を生かせ。」

目的にあくまで執着し、粘り強く思考し、アイデアを絞り出す清の生き様をよく表したエピソードです。

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode5≫

【心を溶かすスリッパ】

清は、第二次世界大戦終戦後のわずか一年後の昭和21年(1946)8月20日に東京の一等地である銀座4丁目に地上2階建ての「三愛ビル」を建設し、サービス業の旗艦店舗としてスタートさせます。

「三愛ビル」建設に向けた土地の買収時の話です。清は東京全体の地勢の利から店舗建設は銀座と決めていました。候補地としていた場所は、佐野屋という老舗の足袋屋の敷地で、皇后様の足袋を御用達している家柄ということで、清がいくら説得しても当主の老婦人は首を縦に振りません。「先祖伝来の土地を手放す訳にはいかない」の一点張りでした。

大雪のある夜、清は世田谷に住まいのある老婦人を訪ねましたが、それでも会ってももらえません。ところが「雪の中を社長がわざわざ訪ねてきたのに会いもしないで追い返すのは失礼だと息子に叱られた」ということで、老婦人は、翌日の午後、浅草橋の清の会社に訪ねてきました。ぬかるみの雪道を歩いてきたため、足袋はびしょびしょに濡れ、着物の裾には泥水を跳ね上げていました。老婦人がビルの入り口でまごまごしていたところを女子事務員が見つけ、やさしく招き入れ、汚れた足袋を脱がせてストーブで乾かし、自分の履いていたスリッパを脱いで履かせてくれた。彼女は靴下のまま、老婦人を労わりながら社長室に案内したそうです。これに感動した老婦人は、清にこう言いました。「実は、はっきりお断りするつもりで参ったのですが、たった今、階段を上がってくる間に気持ちが変わりました。」

戦争に敗れ、世も人の心も荒んでいると思っていたのに、人を思いやる女性がいる。そしてそんな社員教育を今どきしている社長はきっと素晴らしいと、老婦人は女子事務員と清を褒め讃えたのです。この社長なら銀座の角地をきっと繁栄させるに違いないと見据えて、老婦人は土地を売る決心をしたのでした。

これにより、清が求める広さの土地が確保され、「三愛ビル」建設に着手していく訳ですが、やはり清が「使用人は協力者」という思いを会社が大きくなっても実践していたために、社員教育にも反映されたということでしょう。

市村清七つの名言・格言

≪市村清ストーリー:episode6≫

【惚れられる男とは】

昭和30年代後半、清の名は、経済界はもとよりマスメディアを通じて広く世間にも知られるようになります。こうした中で、いつしか若手財界人や文化人のグループができ、世間はこれを「市村学校」と呼ぶようになりました。

その「市村学校」の“生徒”の一人とのやり取りが、実に清らしいエピソードとして伝えられています。

「市村先生、男に惚れられるような人間になる方法というのはありませんか。」

「惚れられるか…。尊敬されたり信頼されたりというのとはちょっと違うなぁ。」

「違いますか。」

「違うね。ものすごく勇気があるとか、抜群に頭が切れるとか、大変信義に厚いとか、一言で言えば『偉い奴』じゃなければ惚れられない。だが、それだけじゃ駄目だね。」

「…とおっしゃいますと?」

「惚れられるには、自分の欠点を一つや二つさらけ出していかなくちゃ駄目さ。人間、あんまり偉いばかりじゃ、寄り付きにくいだろう。それじゃ尊敬はされても、男からも女からも惚れられないよ。」

尊敬する相手の愛すべき欠点やユーモラスな失敗は、近寄りがたさの壁を崩し、親しみを感じさせます。尊敬する相手の『人間臭さ』を感じたとき、人は相手に『惚れる』のでしょう創業の理念である『三愛精神』の一番目に『人を愛し』という言葉を掲げた清は、偉大さも欠点も持ち合わせ、そうした自分を誰に対しても飾らず表現し、多くの人に愛され、惚れられた人物だったということです。