市村清 History
経歴(プロフィール)

〜リコー三愛グループ創業の父、みやき町・佐賀県に大きな功績を残した偉人『市村 清』〜  明治33年(1900)4月4日、市村氏は、みやき町市原地区で生を受けました。地元北茂安小学校で主席を続け卒業、名門佐賀県立旧制佐賀中学校に入学しますが、生活困窮を理由に佐賀中学校を2年で中退することに。隣の久留米市を中心に野菜行商を始めて、14歳で家計を助けるようになります。
幼少期の貧困は、後に強い志と価値観を生み出しました。

市村清

権力や金力に臨むときは徹底していた清ですが、自分の資産に関してはいたって無関心だったそうです。また『世の中の多くの人は金さえあればというけれど、どんな場合でも、一番大切なのは信用である。金を貯めようとすると非常に骨が折れるが、信用を得るには一生懸命やればよい。そうすれば、金はひとりでについてくる。』
その信念は終戦直後提唱した、三愛精神「人を愛し 国を愛し 勤めを愛す」へ繋がっていくことになります。

市村清

【人を愛する】
「使用人は事業の協力者だ」ということを清は信念として実行していました。  清も幸恵夫人も、使用人を呼ぶときは「君付け」で呼ぶことにし、月給は相場の六割増し。三度の食事も仕事の時間も全て雇い主である清と同等だったそうです。清夫婦には子宝がなかったこともあり、自然と精神的にも我が子のように大切にしたということです。

市村清

【国を愛し、勤めを愛する】
第二次世界大戦後の焦土の中で、清はこれからは「平和」につながる企業でなくては存在の意義を持たぬと考えました。人類が深刻な闘争を繰り返す意味をあれこれと考えた結果、「愛」こそが仕事の根幹でなければならぬと結論したのです。
愛することは、生活が豊かでなければできない。それにはやはり「勤めを愛する」こと、そして、企業として従業員が楽しく働ける環境を整えることが必要でした。
『創意を働かせれば仕事はだんだんに面白くなる。仕事そのものの技術も熟達する。結果的に職場の地位が上がり生活も余裕ができるから、他人のことを考え、人を愛することもできるようになる。個人としてそこまでいけば、やがて社会に対する愛となり、「国を愛する」精神につながることは間違いない。それが戦争というような人間悪の極致現象をなくすもととなるのではないか』と清は後に語っています。

市村清 写真

数々の試練を乗り越え、株式会社リコーの社長となった市村氏は、会社を多角化しつつ、持ち前の分析力、観察力、行動力、粘り強さで、会社を『世界のリコー』と呼ばれる大企業に押し上げていきました。昭和30年代後半以降、市村清の名は、経済界はもとよりマスメディアを通じて広く世間にも知られるようになります。
創業の理念である『三愛精神』の一番目に『人を愛し』という言葉を掲げた清は、偉大さも欠点も持ち合わせ、そうした自分を誰に対しても飾らず表現し、多くの人に愛され、惚れられた人物だったということです。
企業活動だけではなく、佐賀市の市村記念体育館、みやき町の北茂安小学校講堂の寄贈、千栗八幡宮への多額の寄付など、市村氏の地元への想いはとても深いものでした。 目的に対して粘り強く思考し、アイデアを絞り出しながら、数々の困難を乗り越えた清の生き様は、現在も故郷である佐賀県を始め、様々な場所に影響を与え続けています。

市村清

年譜

1900年(明治33年) 4月4日 佐賀県三養基郡北茂安村(現みやき町)で、市村豊吉の長男として生まれる。
1913年(大正2年) 13歳 県立佐賀中学に入学。
北茂安村から最初の合格者となるも、翌年7月に経済的困窮のため中退。
野菜売りで家計を助けるようになる。
1920年(大正9年) 20歳 中央大学専門部(夜間)法科に入学する。
日中合併の大東銀行に入社するため3年で中退。
入社後は北京、上海と渡り会計主任、支店長代理を経て取締役に就任する。
1925年(大正14年) 25歳 松岡幸恵と結婚
1929年(昭和4年) 29歳 理学研修所が開発した理研陽画感光紙の権利を譲り受け、福岡市春吉で独立開業。
1936年(昭和11年) 36歳 理研感光紙株式会社として創立、専務取締役に就任
1937年(昭和12年)37歳 旭光学工業株式会社 専務取締役 就任
1945年(昭和20年) 45歳 終戦。三愛商事を創立。サービス業界に参入
1946年(昭和21年) 46歳 銀座4丁目に新店舗オープン
1957年(昭和33年) 58歳 西銀座デパートをオープン
1962年(昭和37年) 62歳 日本経済新聞『私の履歴書』に一ヶ月にわたって掲載される。
日米飲料株式会社の取締役社長に就任、コカ・コーラの北九州地区の販売権を得る
1963年(昭和38年) 63歳 出身地、佐賀県の青少年スポーツ振興のために体育館を寄贈する
1965年(昭和40年) 65歳 世間の非難を浴びながら、再建に必死のスタートを切る。
1967年(昭和42年) 67歳 2年半で、リコー再建。不屈の闘魂として称賛を浴びる
1968年(昭和43年)68歳 急性肝萎縮症のため、永眠